今日の昼休みは時間がとれたので、少し足を延ばして、居酒屋北海道に定食を食べに行った。本日の魚定食はアジの開きだったので、肉定食の鳥の空揚げと比較して、魚を選択した。

アジの開きを食べながら考えた。このアジを食べたおかげで今日も元気でいられるが、食べられたアジは子孫を残せないかも知れない。アジとしては、何万と卵を産んでも、一匹親になれるアジを残せればいい方で、ほとんどは大きな魚や人間に食べられてしまう。元気で極めて運の良い個体だけが生き残り、卵の時点でどの卵が親になるか、誰にも予測できない。まったく理不尽な世界である。

対して、食べている僕の方はどうか。アフリカの貧しい家庭に生まれたか、日本の中流以上の家庭に生まれたかで差はあるが、親になれるのが何万分の一という状況ではない。(確かに、アジと人間では子どもの数は違うが。)日本では、天寿を全うできたという感じの人も多い。まったく幸せな世界ではないか。

それなのに、人間は生きられるだけでは満足せず、生きる意味を追い求めようとする。生活に困っているわけでもないのに、生きがいが見つからないなら、生きている価値がないと言う人もいる。子育てのために身を削って働いている人に、失礼ではないか。大きな魚に食べられないように逃げ回りながら、空いた時間に食事をし、結局親になれずに人間に食べられてしまうアジには、もっと失礼ではないか。

でも、人間は普通の生き物の枠を超えているかも知れない。IPS細胞の研究も進み、結婚しなくても、手の皮とかを凍結保存しているだけで、自分のクローンを作れる時代が来るかも知れない。出生をコントロールできる可能性が出てきたくらいだから、個体が必ず死を迎えるという宿命も、超えていく道が将来は見つかるかも知れない。

ただ、太陽等のエネルギーを消費しながら、アミノ酸等が壊れない環境下でしか生きていけない、という性質までは簡単に超えられないのではないか。どこまで行っても、人間には生き物としての限界は追いかけてくるように思う。

いろいろな例外はあり、ひとことで言うのは簡単ではないが、地球上に生まれて、人間として落ち着いて思考できるだけの教育や経験、空腹でない時間等があれば、それだけで幸せではないか。

昼休みの時間だけでは考え切れず、一部仕事をはさんで退社後に考えた部分もありますが、アジを食べながら、そんなことを考えた一日でした。おいしかった上に、いろいろ考えさせてもらったアジには、感謝の言葉もありません。ありがたいアジの開きでした。

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