僕はキツネという動物に妙な親近感を持っている。新美南吉が好きな理由の一つは、キツネが登場する名作を書いているからだし、テレビでもキツネが登場すると、何だか注目してしまう。あまり関係ないが、時々キツネうどんも食べている。

キツネに親近感を抱いたのは、10年あまり前からである。その頃、いろいろ悩んでいて、頭の回転は遅いが、頭は悪いという程ではなく、心の根っこの部分で非常に誇り高い気質を持っている僕は、どのように生き残っていけばいいのか、考えていた。特に従来の日本の社会では、権力者のパシリになって何でも言うことを聞いて服従し、その中で仕事を覚えたり人脈を築いて力をつけ、やがてその権力者が引退したら、後を継いで組織を動かす、という型がある。権力者に対して、お世辞を言ったりハイハイと言うことを聞くのは、犬が飼い主に尻尾を振ったりお手をするのに似ている。そんな服従の作業が僕はどうも苦手である。理にかなったことを言われれば従えるが、理解できないことに対しては理由を聞いたり、バカなことを言われれば反論したくなってしまう。

人間が社会で生きざるを得ない中で、完全に従属せず独立を保とうとする僕の気質は、自然が失われる中で独立して一応は野性を維持しているキツネの姿と重なる気がして、親近感を抱いた。また、キツネはイギリスではキツネ狩りという伝統の対象ともなり、あまり尊敬されているとは言えないが、日本では神社に祭られて信仰の対象となっていることも、自分をキツネになぞらえて、あまりみじめにならずに済む理由でもある。いつも人間の近くにいて、それなりに賢いのに、服従も敵対もせずに、一応独立している生き物は、信仰の対象にしないと、日本人の気持ちが落ち着かなかったのかも知れない。

最近、ロンドンの都会ではキツネが大繁殖しているらしいが、キツネの実態は、そうは言っても、決して甘いものではない。人間や犬の影におびえて、人家の庭に掘った穴にいつでも逃げ込めるように警戒しながら、人間の捨てたゴミや、人間のおこぼれで育ったネズミを食べて命をつなぐ。おいしい食べ物を食べられる人間や、大事に育てられる犬などに比べれば、何ともみじめなものである。僕も自分の気質を変えられないなら、権力者の顔色をうかがい、ゴミをあさって食べる覚悟が必要だと思った。力のないものの独立の実態とは、そんなものだとキツネは教えてくれる。

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